インターネットをもっと怖がろう: ある広告人の告白(あるいは愚痴かもね)
ブログをはじめたての頃、投稿ボタンを押すのがすごく怖かったんです。
誰でも閲覧できる場所に自分が書いたものを投げ出すわけですから。はじめて投稿ボタンを押した時はすごく緊張しました。でもまあ、投稿ボタンを押してすぐに、名もなきブログのエントリをひとつ公開したくらいでは誰も見てはくれない、なんてこともわかるんですけどね。
あの頃はまだユーザーの多くに、インターネットはオープンな空間であるという共通認識はあったと思います。無断リンク禁止みたいなことで、特定のブログコミュニティとの揉めごとはあったけれど、オープンであるがゆえの怖さみたいな感覚は、ほとんどの人が持ち合わせていたような気がするんですね。
批判したら反論される。オープンな空間なんだから当たり前の話で、このブログでも過去に何かや誰かを批判する内容のものもありますが、それなりに覚悟を持って、怖い気持ちを乗り越えながら投稿ボタンを押したりしていたわけです。でも、それが表現するってことですよね。
たくさんの投稿を重ねた今も、その怖さはやっぱりあります。ご批判を受けて、自ら反論をしたこともありますし、論が甘くて、浅くて、そのうえ間違ったことを書いて、専門家の方からご指摘を受けて、どう屁理屈こねても駄目だなと思って白旗を上げたことだってあります。
2ちゃんねるなどでの誹謗中傷が問題になることがありますよね。それは、ほんと問題だとは思いますが、それでも、名無しを保持するシステムや名無しであることを維持するコメント主の意志は、やっぱり、インターネットはオープンな空間であるという認識に根ざしていると思うんです。つまり、そこにはオープンな空間に対しての自己防衛の意図があります。
最近、ちょっと気になること。
TwitterやFacebookといったソーシャルメディアが登場して、インターネットがオープンな空間であるという認識が少し薄くなって来ているんじゃないかな、と思うことがあります。過剰に意識する必要はないけれど、それにしてもなあ、という気がします。最近、Twitterとかで起きているいつくかの誹謗中傷問題を見て、ちょっと今までとは質的に違うものを感じています。
システム的に言えば、自ら設定をしない限り、TwitterもFacebookもオープンなインターネットの中に何の囲いもなくあるんですよね。フォローしなくても、友達にならなくても、設定をしない限りは、誰でも全部閲覧できます。なんとなく知った仲間とのプライベート空間のように思えるのは、インターフェイスがそう見せているだけです。インターネットに公開されるブログエントリと何ら変わりはありません。
mixiでさえ、その気になればオープンになってしまうこともあるんだし、それこそTwitterは、少し前、まだ競合サービスがひしめいていた頃はミニブログと呼ばれていたんですから。
確かに、あのタイムラインのインターフェイスをずっと眺めていると、ある種の無敵感覚というか、自分が今置かれている環境をまったく考えに入れないゆるい意識になるのはわからないでもないけれど、それは、基本的に間違っているし、これからインターネットがどのように発展したとしても、そういう感覚が許容されることはないと思うんですね。システム的ににありえないたぐいのものですから。
とは言え、私もそうしたインターフェイスの罠にはまってしまっていて、TwitterやFacebookで無敵に振る舞う人をタイムラインなんかでは見たことがなかったんですよね。だから、そういう人はいないことになってしまっていて、あまりこの問題について考えてはこなかったのは不覚でした。でも、今のソーシャルメディアの環境を考えると、それは必然ですね。
インターネットがオープンな空間であるという認識が薄くなってきているのは、よくないなあと思います。現実は、どう思おうが、どこまでいってもオープンな空間なわけですし、そういう環境なんだしわからないでもない、で済まされない気がするんですよね。分かってやっていて、それなりの武装もしているのならともかく、そういう人って、タイムラインを見ると普通の社会人だったりして、余計に根が深そうだし、結果は悲惨になりそう。
私なんか、これだけ書いて来たのに、投稿するときにはいまだにいろいろ考えますもの。インターネットをもっと怖がろう。いろんな事例を見るにつけ、あえてそれくらい言ってもいいのではと思い出してきました。
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