2012年4月28日土曜日

アメリカをさるく - October 2011


 ミッチェルは1900年にアトランタに生まれた。1949年、自宅近くを夫と歩いていて車にはねられ死亡。48歳の若さだった。"Gone with the Wind" は生涯ただ一つの作品だった。作品が発表された翌年の1937年に栄えあるピュリッツアー賞を受賞している。
 彼女が描いたスカーレットの魅力は決してあきらめない心の強さだ。それがよく表現されているのは、スカーレットが戦火のアトランタからタラに戻り、故郷が北部軍に無残に破壊され、最愛の優しい母親は既に死亡、父親も生ける屍のように気力を失っている現実に直面した時であろうか。食べるものもろくにない状況。あるのは荒廃と飢餓の危機だ。

 Hunger gnawed at her empty stomach again and she said aloud: "As God is my witness, as God is my witness, the Yankees aren't going to lick me. I'm going to live through this, and when it's over, I'm never going to be hungry again. No, nor any of my folks. If I have to steal or kill—as God is my witness, I'm never going to be hungry again." (飢餓感が彼女のすきっ腹を再びさいなんだ。彼女は声に出して叫んだ。「神に誓って、神に誓って、私はヤンキーたちに負けなどしない。私は生き延びて見せる。これが終わったら、二度とひもじい思いはしない。そう、私の一族郎党に決してひもじい思いなどさせはせぬ。たとえそのために物を盗んだり、人をあやめたりすることになったとしてもだ。神に誓って言う。私は二度とひもじい思いをしない」)
 父親のジェラードは21歳の時にアイルランドからやって来て、無一文の身からタラの農園主となった男だった。小説の冒頭部分で農園を継承することなどどうでもいいと言う長女のスカーレットにジェラードは怒って次のように諭す。"Land is the only thing in the world that amounts to anything, for 'tis the only thing in this world that lasts, and don't you be forgetting it! 'Tis the only thing worth working for, worth fighting for—worth dying for." (「土地はこの世で価値ある唯一のものだ。永久に続くものは土地の他にはありはしない。忘れてはならないぞ。そのために汗を流し、戦う価値のある唯一のものなんだ。命をかける価値のあるものなんだ」)
 ミッドウエストを舞台にウィラ・キャザーが描いた開拓者の小説でも酷似している記述があった。そういう意味ではアメリカらしい小説と言えるだろう。
 私は映画では夫のレットを愛していることに初めて気づいたスカーレットが、彼女に愛想をつかして立ち去る彼を引き留めようとするシーンが印象に残っている。レットはスカーレットの懇願を一蹴して別れ際に言い放つ。"Frankly, my dear. I don't give a damn." (正直言って、お前さんがこの先どうなろうと俺の知ったことじゃないよ)。小説では、単に "My dear, I don't give a damn." となっているが。
 それでも彼女はへこたれない。小説は "I'll think of it all tomorrow, at Tara….

401kの苦難の撤退を取得する方法
After all, tomorrow is another day." という彼女がよく口にする言葉で終わっている。
 (写真は、タラのモデルとなった著者の祖父母の家を描いた絵=タラへの道博物館で)

 Since I wrote my last column in English some time has passed. All this while I have been traveling in New York and then to New England area. I've never been in this part of the United States before. So I was very glad to be able to visit and see the so to speak major "birthplace of the new world."
 I understood vaguely why the north-eastern states of this country is called New England. Now I understand better. According a book "Albion's Seed" written by David Hackett Fischer, in the period from 1629 to 1775, this country was settled by at least four large waves of English-speaking immigrants. The first one was "an exodus of Puritans from the east of England to Massachusetts from 1629 to 1640," then followed by "the migration of a small Royalist elite and large numbers of indentured servants from the south of England to Virginia." No wonder the six present states including Massachusetts are called New England.

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 ボールドウィンは生涯の多くの時間をヨーロッパで過ごす。エッセイの中で次にように記している。I left America because I doubted my ability to survive the fury of the color problem here. (Sometimes I still do.) I wanted to prevent myself from becoming merely a Negro; or, even, merely a Negro writer. I wanted to find out in what way the specialness of my experience could be made to connect me with other people instead of dividing me from them.(私がアメリカを去った理由は、私にはアメリカで肌の色の問題がもたらす憤激を乗り切ることができないのではと思ったからだ。〈今も時々そう思うことがある〉。私は自分が単に一人の黒人と色分けされることが嫌だったのだ。いや、黒人の作家として遇されることもだ。私は私が経験してきた私独特のことがどのようにしたなら他の人々の共感を得ることができるものか知りたかった。私と彼らを隔絶することなく)
 自分が今で言うゲイであることを含めて、「一個の人格」として世界の人々からどう思われるのか突き詰めてみたいということであろうか。それがある意味、アメリカ以上に多人種が「交錯」するヨーロッパなら可能だったのだろう。

 ボールドウィンはヨーロッパの魅力を大意次のようにも述べている。ヨーロッパは一人の男が例えばウエイターであっても、その仕事に誇りを持てる社会であり、被害妄想的な階層意識に縛られていない。アメリカ人作家はだからヨーロッパに来て初めて誰とでも何の気兼ねもなく話をすることができると。何となく分かるような気がしないでもない。
私が "Go Tell It on the Mountain" で気に入ったパラグラフがある。ジョン・スタインベックの "The Grapes of Wrath" でも似たような一節があったかと思う。ジョンの父親の姉、つまりジョンにとっては伯母に当たるフローレンスがジョンの母親のエリザベスに向かって語りかける場面だ。エリザベスはこの時まだ、やがて自分の夫となるフローレンスの弟に出会っておらず、自殺した恋人でジョンの実父を失った悲しみを友人のフローレンスに初めて吐露する。フローレンスはエリザベスを次のように励ます。

 "Yes," said Florence, moving to the window, "the menfolk, they die, all right. And it's us women who walk around, like the Bible says, and mourn. The menfolk, they die, and it's over for them, but we women, we have to keep on living and try to forget what they have done to us.

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Yes, Lord—"(「そうね」とフローレンスは窓の方に近づきながら言った。「男連中はそうやって死んでいくのよ。構やしない。聖書に書いてあるように、その後に残って悲しみに暮れるのはあたしたち女。男連中は死に、それで終わり。でも、あたしたち女はそうはいかないのよ。あたしたちはずっと生き続けなくてはならない。男たちがあたしたちにしたことを忘れるようもがきながらね。ああ、神様」)
 (写真は、NYのビジネス街にある「アフリカ人墓地」の国史跡。重労働などで死去した多くの黒人奴隷が人知れず埋まっているのが判明したのは連邦ビル建設工事中の1991年のこと。黒人の人々の運動が実り、国史跡となった。地元高校生は屈託なく記念撮影)


 この国では奴隷制度の廃止か否かが対立の一つの要因となり、南北戦争(1861-65年)が戦われ、南部の農園などで隷属的立場にあった黒人は自由人となった。しかし、その後も黒人に対する人種差別は続き、彼らが晴れて白人と同様の権利を獲得するには1950年代から60年代にかけての公民権運動が成就するまで待たなければならなかった。
 だからこそ、race riot と呼ばれる人種暴動の「火種」は全米各地でくすぶり続けてきたし、ある意味、今もそうかもしれない。多様な人種で構成されるアメリカで今も黒人が社会の最下層にあることは多くの統計資料が示している。
 それはさておき、南北戦争後、さらには第1次大戦後、多くの黒人が「豊かな暮らし」を夢見て、南部諸州から北部諸州にやって来る。ボールドウィンの父親(実際には育ての親であり養父)も南部ルイジアナ州ニューオーリンズからニューヨークにやって来た一人だった。だが、北部の暮らしが心地よいものだったとは言えないようだ。

 アメリカの黒人作家のことを紹介した作品に "Native Sons" (邦訳『アメリカの息子たち』)という本がある。ニューヨークの大学教授のエドワード・マーゴリーズ氏が1969年に著した本で、ボールドウィンの項で次のように書いている。
 In the South, at least, a Negro knew where he stood, however barren and bitter his place. Above all, there existed in the South a pattern of interpersonal relationships among whites and Negroes—rooted, to be sure, in racial preconceptions, but for all that occasionally warm and recognizable—so closely interwoven had been the lives of both races over the centuries. But the white Northerner, when he was not downright hostile, treated Negroes with cold and faceless indifference. If he granted them greater self-expression, he seemed at the same time to be saying, "You may amuse me from time to time with your quaint and primitive antics, but in all significant areas of my life please keep away." For the Southern Negro migrant, the emotional stresses must have been intolerable.
(南部では黒人は少なくとも自分がどういう場所にいるか心得ていた。たとえ、それがどんなに殺風景で辛いところであったとしても。南部ではとりわけ、白人と黒人の間に個人的な関係が存在していた。確かに人種的な偏見に根差したものではあったが、それでも時として温かく、肌で感じることができるものであった。何世紀にもわたって彼らの暮らしは絡み合ってきたのだから。しかし、北部の白人は頭から敵意があるというわけではなかったが、黒人を冷たく、無表情の無関心さで扱った。仮に黒人に自己表現の機会をより多く与えたとしても同時に次のように言っているような感じだった。「お前さんは時々、そのお前さんの奇妙かつ原始的な芸当で私を楽しませてもよかろう。だが� ��私の人生の大切な分野では私の前からお引き取り願えるかな」。南部から仕事を求めてやって来た黒人の精神的なストレスは耐えられないものであったろう)

 (写真は、ハーレムのレストラン。週末ともなれば観光客でかなりの混みようだ)



 先に、アメリカという国で黒人に生まれるということがどういうことを意味するのか、と書いた。ボールドウィンが書いたエッセイに次のような一節がある。
 第二次大戦中のことだ。作家はニューヨークの南にあるニュージャージー州の工場で働き始める。工場の同僚は米南部出身の人々であり、ハーレムで育ったボールドウィンにとっては南部の人々と接する初めての体験だった。次のように振り返っている。
 I learned in New Jersey that to be a Negro meant, precisely, that one was never looked at but was simply at the mercy of the reflexes the color of one's skin caused in other people.(私はニュージャージーで黒人であることはまさに一顧だに値せず、肌の色が他の人々にもたらす反射神経のなすがままにあるということを身を持って学んだ)
 ボールドウィンにとっては辛い体験だった。ナイトクラブ、ボーリング場、レストラン、どこに行っても、相手にしてもらえず、黙って立ち去ることを求められるようになる。そのうちに彼は町中で目立つ存在となる。
 I very shortly became notorious and children giggled behind me when I passed and their elders whispered or shouted—they really believed that I was mad.(私はほどなく悪名をはせ、私がそばを通り過ぎると、子供たちはくくっと笑い、大人はささやき合うか私の背後から罵声を浴びせた。彼らは私が気が狂っていると本気で信じていた)
 誰でもこのような経験をすれば、トラウマに陥ることだろう。
 There is not a Negro alive who does not have this rage in his blood—one has the choice, merely, of living with it consciously or surrendering to it. As for me, this fever has recurred in me, and does, and will until the day I die.
(生きている黒人でこうした激しい怒りがその血管の中に流れていない者はいない。それを意識しながら生きていくか、それに身を委ねるかしか選択の余地はない。私はこの怒りの熱病にその後も何度もとらわれ、今もそうだ。私が死ぬ日までこれから解放されることはないだろう)

 私は強烈な人種差別的経験はない。強いて言えば、まだ、アパルトヘイト(人種隔離制度)のあった南アフリカで黒人の取材対象者とレストランで食事していたら、周囲の白人客から憎悪に満ちた視線を浴びたことぐらいだ。食欲が失せるぐらいの敵意を感じた。アメリカの黒人の人々は公民権運動が実り、人種差別的な制度がなくなる1960年代までこうした視線を常に感じながら暮らしてきたのだろう。
 ボールドウィンは "Go Tell It on the Mountain" でデビューし、その後もアメリカ文学に足跡を残す作品を発表していく。その後に続いた黒人の若者たちに「黒人であっても作家になりうる」ことを示した功績は大と言えるだろう。彼はまた同性愛者であることも隠さず、続く作品の中で露骨な性描写も厭わなかった。
 (写真は、ハーレムにある観光名所のアポロシアター。毎週水曜日夜は今も「アマチュアナイト」と称して、明日のスターを目指す若者が歌やダンスなどの技量を競っている)



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